錦帯橋や猿橋などの日本三奇橋や日本三名橋、また通潤橋など日本にある有名な橋からちょっとした吊橋など実際に旅行に行ったところを紹介しています。
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眼鏡橋(長崎県長崎市)についての情報
| 写真紹介 | 周辺マップ | 交通アクセス | 中島川石橋群 |
2009/6/12(金) |
曇り |
| 高さ(水面から) | 5.46m | 橋の長さ | 22m | 橋の幅 | 3.65m |
眼鏡橋は、長崎県長崎市の中島川に架かる橋で国指定の重要文化財。また、日本三名橋の1つ、そして日本最古の石造アーチ橋になります。
眼鏡橋が架かる中島川には、「中島川石橋群」として12もの石橋が架けられており、眼鏡橋はその第10橋にあたります。
眼鏡橋は、水面に映るその容姿から昔から人々に「めがね橋」と呼ばれていたが、明治15年(1882年)に正式に「眼鏡橋」として命名。
実際に見てみると確かに眼鏡のように見えました。
橋の中央にある橋脚が少し出ており、それが“鼻”のように見えてかわいかった。
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| 寛永11年(1634年) | 中国江西省建昌府建昌県の黙子(もくす)禅師(興福寺唐僧)により架設。 |
| 正保4年(1647年) | 洪水により被害をうける。 |
| 慶安元年(1648年) | 平戸好夢(こうむ)により修復。 |
| 明治15年(1882年) | 正式に「眼鏡橋」と命名。 |
| 昭和57年(1982年) | 集中豪雨により被害をうける。 |
この日は、長崎市内で「あじさい祭り」が行われていて、中島川沿いにも紫陽花がたくさん飾られていました。あじさいと眼鏡橋はお似合いだった。
スタンプもあったのでもちろん判を押した。
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夜に再度、眼鏡橋を訪れてみると、やはりライトアップされていた。
う~ん、キレイだ。
長崎市観光・宿泊ガイド あっ!とながさきの「眼鏡橋」のページ![]()
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| 最寄駅 | 長崎電気軌道 路面電車 公会堂前 (長崎電気軌道の詳細を見る JR九州 長崎駅 (駅の詳細を見る |
徒歩:JR長崎駅から路面電車蛍茶屋行きで4分、「公会堂前」下車、徒歩8分。
車:JR長崎駅前から約10分。
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2009/6/12(金) |
曇り |
この橋の前に中島聖堂が移転する前にあったのが、鄭成功(ていせいこう)に頼まれて唐貿易で使用する「元豊通宝」を鋳銭(じゅせん)した“中島銭座”。そのためこの辺りの川を銭屋川と言い、前にある橋にこの名前がついたそうです。中島聖堂は、昭和34年、保存のため興福寺境内に移築されている。現在、その聖堂跡の隣地には中島天満神社がある。
延宝7年(1679年)に僧卜意により架橋された石造アーチ橋。「卜意橋」(ぼくいばし)とも呼ばれている。昭和57年(1982年)の長崎大水害により大破したが、昭和60年に復旧されている。本物の石橋はこの橋と眼鏡橋、袋橋だけ。
長崎の伊勢町と八幡町をつなぐために、長崎の貿易商人「園山善爾」(そのやまぜんじ)が1690年(元禄3年)に架けたもの。
当時、死刑囚が市中引き回しの途中必ず渡らなければならなかった石橋で、橋際に阿弥陀堂が建てられており、「処刑場へ送られる囚人達の心情を思い、今生の改心と来世の成仏を願って」寄進した。と伝えられる。
承応元年(1652年)に中島川上部の伊勢町に架橋され新高麗町となったことから、橋の名前を高麗橋というようになった。
中島川の第3橋。元禄11年(1698年)に岡正敏によって石造アーチ橋が架設された。幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。大井手町に架かることから、明治15年に大井手橋と命名。
中島川の第4橋。元禄12年(1699年)に岸村氏夫妻によって石造アーチ橋が架設された。幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。今博多町が往時、“あめがた町”と呼ばれたことにちなんで、明治15年に編笠橋と命名。
中島川の第5橋。元禄10年(1697年)に河村甚右衛門の母「妙了」(みょうりょう)によって石造アーチ橋が架設された。幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。古町に架かることから、明治15年に古橋と命名。
中島川の第6橋。明暦3年(1657年)に高一覧によって石造アーチ橋が架設された。幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。最初の架設者の高一覧にちなんで、明治15年に一覧橋と命名。
中島川の第7橋。延宝9年(1681年)に石造アーチ橋が架設された。(架設者不詳)幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。この橋付近一帯に草が群生していたことにちなんで、明治15年に芊原橋と命名。
中島川の第8橋。寛文13年(1673年)に石造アーチ橋が架設された。(架設者不詳)幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。東に新橋町(現在の諏訪町)があることにちなんで、明治15年に東新橋と命名。
中島川の第9橋。元禄6年(1699年)に岡正恒によって石造アーチ橋が架設された。幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。往時この付近一帯にあった魚市場にちなんで、明治15年に魚市橋と命名。
中島川の第10橋。上記。
中島川の第11橋。この橋は記録がなく、架設月日、架設者とも不詳。眼鏡橋につぐ古い石橋との説もあり、度々の洪水にも流失を免れている。袋町橋とも呼ばれたが、明治15年に袋橋と命名。本物の石橋はこの橋と眼鏡橋、桃渓橋だけ。
中島川の第12橋。延宝7年(1679年)に崇福寺の大壇越であった魏之炎(王遍に炎)(ぎしえん)によって石造アーチ橋が架設された。幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。「古川町橋」「第十二橋」と呼ばれていたが、明治15年に西道仙が古川橋と命名。
中島川の第14橋。延宝6年(1678年)に京都商人・金屋喜右衛門によって石造アーチ橋が架設された。幾度可の流失により、現在はコンクリート橋となっている。江戸時代、第十四橋と呼ばれ、萬屋町に架かっていたので「萬屋町橋」とも呼ばれが、明治15年に西道仙により萬橋(万橋)と命名。
慶応3年(1867年)の豪雨で橋が大破。それ以前も何度も水害被害を受け流失、大破していることから、慶応4年(1868年)に長崎製鉄所によって鉄橋が架設された。橋のそばには初代にあった石柱が残されている。
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